百済文化の故郷 公州 ・ 扶余日帰りツアー
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4世紀の東洋の海洋強国百済の歴史を感じることができる夫余、公州地域のツアーです。この地域の建築物には、日本の奈良地方のものと似ているものも多くあります。こちらのツアーは、それらの類似性を感じることができ、見るだけではなく百済と日本との歴史的なつながりを知ることができるものです。
(( 詳しいコースの内容 ))
ホテル-扶余-扶蘚山城-百花亭-皐蘭寺-宮南池-昼食-定林寺-国立扶余博物館(月曜日休館)-百済文化再現団地-公州-宋山里古墳群-公州博物館(月曜日休館)-ソウル-夕食-ホテル
*専用車・専属ガイドがご案内します。
*コースの順序や内容は現地事情により変更となる場合がございます。
扶余(プヨ)に到着して最初に探訪するこちらは、百済最後の王宮地であった扶蘇山城です。百済時代に泗沘城と呼ばれたこちらは、頂上部分を結びつけたように石を積み上げた後、谷間を回る周辺の山陵によって城壁を作り上げた山城です。
入り口から三忠祠を経て着いたこちらは迎日樓です。660年頃、百済を侵攻した唐の軍隊が山城を侵攻した時に作られた劉仁願紀功碑があったところです。劉仁願紀功碑は現在扶余国立博物館に移転されています。
山城の中心部には青銅器時代の住居地が残っています。色々な形態で土を掘って飲食の貯蔵庫や柱を立てたと言われます。このような方式は主に青銅器時代の住居形態だと言われています。
山城道を行くと、半月樓があります。この樓閣は1972年に立てられたもので白馬河と扶余の市街地が一望できます。
こちらは泗澬樓(サザル)。 扶蘇山(プソサン)城で一番高い場所に位置しており、月見をしたという松月台があった場所ですが、今の樓閣は百済時代ではなく朝鮮時代に作られたものです。建物を作る時名前が刻まれている「金銅鄭智遠銘釋迦如來三尊立像」が発見され注目された場所でもあります。
こちらからが当社のオススメ。
その一番目が落花巖の百花亭。百花亭の上で眺める白馬河と周辺景色の美しさは、言葉で言い表せないほどです。 百済の滅亡当時に宮女たちがこちらの絶壁から落ちて死んでしまったという伝説がありますが、その魂を追慕するため1929年にこの亭子を作ったと言われます。いったいどのぐらいの宮女が死んだのでしょう?ガイドさんに聞いてみましょう~ガイドさん!!!
次は皐蘭寺(ゴランサ)です。この寺のポイントは、寺の壁に描かれている壁絵。百済時代のものではないが、日本との深い関係が??
色々な壁絵の中で特に興味深いのがこの絵。日本人の少女3人が仏教に感銘され、比丘尼になるために命をかけて海を渡り、百済の皐蘭寺に留学に来たという内容です。この三人は、日本の歴史上最初の比丘尼として飛鳥文化の黄金時代を開く莫大な力になったと言われます。その三人は善信尼、禪藏尼、惠善尼と呼ばれたと言います。善信尼は、飛鳥の王室で仏像を作った百済系高位階級の技術責任者の司馬達等の娘でした。
壁絵を観賞した後は、寺の後ろ側も廻りましょう。“これを飲んだ百済王は元気が旺盛となり、胃腸病はもちろん風邪も引かなかった”という伝説が伝わる皐蘭井の薬水があります。ぜひ飲んでみましょう。3年ずつ若くなるという伝説だ。3杯は飲まなきゃー。
皐蘭寺で3年以上若返った皆様!!何となく元気が!!?(笑) 皐蘭寺から下り、渡し場に行って船に乗ります。 白馬河上で眺める皐蘭寺と落花巖はとっても美しいです。ガイドさんから落花巖について案内を受けた方は、落花巖で死んでしまった宮女たちを思い出してみましょう。
扶蘇山(プソサン)城を見た後は、日本書紀に日本造景の源流として記録されている書童公園の宮南池を見ます。この宮南池は百済宮の庭園として韓国の庭園の中でも一番古い庭園として知られています。 この庭園を見れば、百済が庭園を構えるすぐれた技術を持っていたことがわかります。 蓮華が咲く時期には、湖に蓮華が満開して本当に壮観な所です。
宮女たちの魂のためかな・・・?何となくお腹ペコペコ!!昼食は、扶余(プヨ)で有名な石サムバブです。色んな漬物と石釜に各種の野菜を入れて作ったご飯はとっても美味しいですよ~ (구드레돌쌈밥 : 041-836-0463)
昼食後に少し休息をしてから訪ねるこちらは、日本古代のお寺の始まりになったという定林寺址です。 定林寺は百済時代に市内の真ん中に位置していた重要なお寺だったと言います。お寺の中には花崗岩で作られた塔があります。 これが韓国の国宝第9号である扶余定林寺址五層石塔として、木造塔の模倣を脱して創意的な変化を試みて新たな様式を確立し、韓国石塔の始原様式としてその意義が大きい塔です。この石塔と南北で向かい合っているのが定林寺址石仏座像で、高麗時代に作われたものです。
次に移動するコースは国立扶餘博物館です。こちらでは、青銅器時代だけでなく百済時代の生活と文化を見ることができる所です。 特に、百濟金銅大香盧や七支刀の複製品もあり、色々な遺物たちを通じて百済人の鉄を扱う技術や細工技術を確認できる所でもあります。 また、瓦の形態や各種文様などを日本の物と比べながら観覧することもいいです。
扶餘(ブヨ)の最後のスケジュールは、百済の文化生活を再現した百済文化再現団地。
百済の王宮、陵事、生活文化などが再現されています。王宮査察の丹青は百済時代の代表的な建築様式として舍備城のすべての建物ごとに百済時代遺跡と遺物に根拠したリアルな再現を通じて百済の歴史文化を理解するのに役に立つと思います。
時間に余裕があれば、ソドンヨセット場に行ってもいいです。
百済文化再現団地の規模は小さいですが、それなりの雰囲気があります。これで扶余でのツアーを終わりにします。
次の場所、公州に行きます。
公州の初探訪地は、武寧王陵がある宋山里古墳群です。日本の国宝第2号である“隅田八幡神社の人物画像鏡”の裏面に刻まれた斯麻が、弟王(継体天皇=男大迹王)の長寿を祈願して送った物と記録されていますが、ここで登場する斯麻がまさに武寧王であると言われています。 また、武寧王の棺は九州の大分県に自生する金松で作られており、これは韓国では見られない木材です。これらのことから、百済と日本の親密な関係が見えてくるのではないでしょうか。
隅田八幡神社人物画像鏡の原文
"癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟"
武寧王陵はどうでしたか?日本と深い関連があるからもっと知りたいですよね!だから、もっと詳しく知るため国立公州博物館に行きます。ここでは、松山里古賁群から発掘された各種の遺物が展示されています。特に、武寧王陵の発掘当時の姿を再現した物もあり、503年に継体天皇に送られた人物画像鏡に記録された“斯麻”について書かれている石版もあります。その内容は、“百済の斯麻王は 523年に亡くなった”というものです。日本との歴史的な関係や日本の遺物との差を比べながら観覧するともっと楽しいですよ~
百済の首都である扶余では、多様な遺跡と遺物を見ることにより、百済人たちの生活及び各種建築物や土器の文様など日本との文化交流について知ります。また、公州では日本の国宝第2号と武寧王との関係について知ることにより、百済という国が日本とどのような関係があったを深く知ることができます。